カタカムナについて

カタカムナの生まれた六郷満山とは

六郷満山とは

転載:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

六郷満山(ろくごうまんざん)は、大分県国東半島一帯にある寺院群の総称である。六郷は両子山を中心とした山稜の間に開かれた6つの郷、満山はそこに築かれた寺院群を指し、古くから六郷満山文化と呼ばれる独特の山岳宗教文化が栄えた仁聞菩薩は、宇佐八幡神の化身(生まれ変わり)として宇佐国東の地に今をさかのぼること約1300年前に神仏習合の原点となる山岳宗教、「六郷満山」を開かれました。

伝説によれば、仁聞菩薩が、養老2年(718年)頃に、国東半島の各地に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったといわれている。

実際には、古来国東半島にあった山岳信仰の場が、奈良時代末期から平安時代にかけて寺院の形態を取るようになったものである。古来の山岳信仰が、近隣の宇佐神宮及びその神宮寺である弥勒寺を中心とする八幡信仰、さらには天台系修験と融合した結果、神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成されたと言われる。今日でも、33の寺院と番外に宇佐神宮を加えた「国東六郷満山霊場」(国東半島三十三箇所)が構成されている。

国東半島には、中央にそびえる両子山から放射状に伸びる谷筋に沿って、武蔵(むさし)、来縄(くなわ)、国東(くにさき)、田染(たしぶ)、安岐(あき)、伊美(いみ)の6つの郷が開け、六郷と呼ばれていた。また、国東半島の寺院群は、学問をするため本山(もとやま)、修行をするための中山(なかやま)、布教をするための末山(すえやま)の3つの群に分けられ、これらは合わせて満山と呼ばれていた。このことから、国東半島の寺院を総称して六郷満山と呼ぶようになった。

二十八谷

転載:神仏習合の宝庫

和傘の柄を取って伏せたような丸い半島。中央の両子山(721メートル)から四方に向かって放射状に延びる尾根と谷。国東半島は火山によってできた地形を見せてくれる日本でも典型的な半島だ。

半島が成立した後、東西に黒津崎―両子山―真玉を結ぶ線から北が沈降し南が隆起した。このため北にはリアス式の海岸線が生まれ、南には東の奈多、あるいは西の真玉・呉崎海岸のような遠浅の浜ができた。

さらに、半島を頭になぞらえれば、その首根っこにあたるところに地塁と呼ばれる華ケ岳、田原山、さらに杵築山地が連なり、マフラーを巻いたような格好である。

放射状に延びる谷は古くから「二十八谷」と呼ばれた。人々はここに住み着き、田畑を開き、村を営んだ。それが次第にまとまり、古代には六つの郷が成立した。「六郷」は半島の代名詞のようなものになった。

やがて宇佐神宮が進出し、神領地としての荘園を経営する。海岸線の各地に奈多、桜、別宮、若宮など幾つもの八幡社を設け、神仏習合の後、山々に「六郷満山」と称するおびただしい寺院や聖地をつくった。半島は「神と仏の里」となった。

二十八谷は半島の河川数とは一致しない。その数は法華経の品数、つまり巻数である。満山寺院は本山、中山、末山の三山組織を持ち、その本寺の数もまた28ヵ寺。それは半島文化の聖数にほかならない。

山と谷には、いたるところに耶馬渓式の岩景が見られる。夷耶馬、文殊耶馬、並石ダムに影を落とす鬼城の岩峰、三の宮の景、千灯岳の不動岩などなど枚挙にいとまはない。地塁には鋸の歯のような岩峰を連ねる鋸山こと田原山も立つ。そこに六郷満山の寺と社が立地し、岩屋や石仏、石塔が散らばり、今日も香煙は絶えない。八幡と法華経による伝統行事や民間信仰の数々。半島はまさに神仏習合の生きた歴史の宝庫である。

仁聞菩薩とは

転載:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

仁聞(にんもん)は、奈良時代に大分県国東半島の各地に28の寺院を開基したと伝えられる伝説的な僧(神仏とする説もある)。仁聞菩薩とも呼ばれ、人聞とも表記される。

六郷満山と呼ばれる国東半島の密教寺院の多くは、養老2年(718年)に仁聞が開基したとの縁起を伝えている。これらの縁起によれば、仁聞は、最初に千燈寺を開基し、その後、国東半島の各地に計28の寺院を開いた後に、最初に開基した千燈寺の奥の院枕の岩屋で入寂したと伝えられる。また、熊野磨崖仏などの国東半島に多く残る磨崖仏も仁聞の作であると伝えられるものが多く、6万9千体の仏像を造ったとされる。修正鬼会を創始したとの言い伝えもある。

今日では、仁聞は実在の人物ではなかったとする説が有力である。六郷満山の寺院は、実際には、古来から国東半島にあった山岳信仰の場が、奈良時代末期から平安時代にかけて天台宗の寺院の形態を取るようになったもので、近隣の宇佐神宮を中心とする八幡信仰と融合した結果、神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成されたと考えられている。各寺院を開基した人物としては、仁聞の弟子として共に修行を行い、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の別当などを務めたと伝えられる法蓮、華厳、躰能、覚満といった僧侶を挙げる説もある。

仁聞については、宇佐神宮の祭神である八幡神自身あるいは八幡神に近しい神の仏教的表現であると考えられている。なお、国東六郷満山に数えられる両子寺奥の院においては、仁聞菩薩と八幡大菩薩を併せて「両所権現」として祀っている。これは両子権現とも呼ばれ、同寺や所在する山の名前の由来と思われる。

福岡県、佐賀県・長崎県・大分県・熊本県の33箇所の寺院からなる九州西国霊場は、奈良時代に仁聞と法蓮によって開設されたと称している

六郷満山(ろくごうまんざん)を読み解く

六郷満山を言靈によって読み解いていくとその実態が見えてくる。

六郷満山とは

六郷(ろくごう) = 六合(りくごう)・・・天地と四方。上下四方。また、天下。世界。全宇宙。六極 (りっきょく) となる。

満山 = 三つ山・・・小門山、両子山、屋山
六合を照らす三つの山

と読み解けていく。

つまり六郷満山は六合の三つの山となるわけだ。

三つの山というのがとても重要になる。これは国東郷土史研究科の邦前文吾先生が読み解いているので参考として紹介させていただきたい。

左の図にあるように、国東の地形は顔の形になっている。正確にいうと火男(ひょっとこ)の顔の造形になっている。図の顔に照らし合わせてもう一度国東半島の写真を見ていただきたいのだが、見事に火男(ひょっとこ)の顔が浮き上がってくるのがわかるだろう。

左目が小門山、天照大御神の山

この火男(ひょっとこ)の左目にあたる山が小門山といい、天照大御神の山になりこの山の頂上には雄渡牟礼城という山城跡がある。

転載:https://www.hb.pei.jp/shiro/bungo/odomure-jyo/

小門牟礼城は成仏寺の北背後に聳える標高535.1mの小門山山頂に築かれている。現在は町指定史跡として登山道が整備されている。

急峻な山頂に築かれた小さな城で、現在山頂には所狭しと多くの無線中継塔が建っており、かなり地形が変わっているようである。現状東端を最高所として西へ四段の平段があり、西端が一番広くなっている。これらの曲輪群を取り巻くように周囲に帯曲輪があり、北西や北東に竪堀が落ちている。

帯曲輪の辺りなどには大きめの石がゴロゴロしており、石積があったのではないかとも思えるが、現状では石碑のある辺りにしか積んでいる所は確認できず、この部分は明らかに後世のものである。

右目が屋山、月夜見尊の山

次に右目にあたる山は屋(夜)山といい、月夜見尊の山となっており、ここの頂上にも山城跡が存在している。

転載:https://www.city.bungotakada.oita.jp/page/page_02548.html

屋山城は、中世に栄華を極めた六郷山惣山長安寺の伽藍(がらん)の上に築かれた「連郭式(れんかくしき)山城」(尾根に沿って細長く郭が連続する山城)です。戦国大名大友氏の重臣であった吉弘氏が、代々居城としていました。築城の時期ははっきりしませんが、吉弘氏が都甲(とごう)地域に本拠を移した16世紀前期だと考えられています。天正7年(1579年)に吉弘統幸によって大改修されたことが古文書から分かっています。

城の登り口

 屋山の尾根は、山頂付近が非常に急で、登り口以外からは到底城にたどり着くことはできません。まっすぐ伸びる登り口の両脇には長い「竪堀(たてぼり)」が設けられ、敵兵が一度に攻め寄せることはできません。また、城の弱点である犬走りに侵入した敵兵を倒すために、「虎口(こぐち)」(城の入り口)付近には張り出した郭(くるわ)や花弁型竪堀が設けられています。 

屋山は、都甲地域の中心にそびえる標高543mの独立峰であり、その名が示すとおり山全体が巨大な屋根のような形をしています。また、見る方角によってその姿を変えることから「八面山」とも呼ばれています。その山頂に築かれた屋山城からは都甲地域が一望でき、「鬼城耶馬」とも言われる素晴らしい景色を楽しむことができます。特に、城の一番奥の「ショウケが鼻」から見える雄大な自然は絶景です。

 

鼻が両子山、素戔嗚の山

この三つの山の中心が六郷満山の中心の山であり、神仏習合の中心地でもある両子山になる。この両子山は素戔嗚の山にあたりそこには驚愕の古代遺跡の痕跡が現在も残っている。

上の写真は両子山にある鬼の背割りと云われている岩の造形だ。正中には人が一人やっと通れるくらいの狭間がある。この鬼の背割りの正面から上を見上げるとそこには顔のような造形が確認できる。

この鬼の背割りはまさに神と鬼を造形しており、それは高皇産霊神と神皇産霊神を現しており、神仏発祥の聖地にふさわしい遺構物である。

さらに両子山の山頂に向かうと天之御中主神を象徴している遺構物も発見した。

両子山の九合目には台座の後に樹が生えている。これも明らかに意図的に造形が施されている。
かつて六郷満山両子山を中心に造化三神の扶桑の木といわれた巨大な樹があった。
その樹は天之御中主でありこの台座は素戔嗚の神の経綸を表した台座である。

 

ABOUT ME
猿田彦
YouTube猿田彦TV運営 縄文カタカムナ文化塾を運営。 楢崎皐月、宇野多美恵からカタカムナを継承した天野成美のもとでカタカムナを深め、独自に言霊を研究。出口王任三郎、岡本天明も師事していた水穂伝、布斗麻邇御靈(フトマニノミタマ)、稲荷古伝を研究しカタカムナを言霊から独自の解読で読み解いている。
天岩戸神社 坤(ひつじさる)の金神 奉納会
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