カタカムナはどこで生まれたのか?

カタカムナの発見された場所

カタカムナとは兵庫県六甲山系の標高338mの山、金鳥山で楢崎皐月が平十字との出会いで世に出されたものだといわれている。

 

発見者 楢崎皐月と平十字

カタカムナ文献が一般的に世に登場したその経緯の概略を紹介していこう。

参考文献:特殊固有なその心、その魂、その精神 カタカムナ《源流》日本人よ! 今こそこの《大霊脈本流》の中に世界を戻すのだ 北一策 (著)

 

楢崎皐月(ならざき・こうげつ)

楢崎氏は日本の物理学者・電気技術者。 1899年五月九日、山口県生まれ、北海道育ち、母が実家で出産して、すぐに父のいえにもどったのではないかと推測される。父は旧仙台藩士の丹野軍治。楢崎皐月は出生直後に軍治の岳父(妻の父)である楢崎家の養子となり、楢崎性を継いだ。

十七歳で旧制中学校を卒業後、志願兵として陸軍に入隊する。ちなみに当時の旧制中学は五年生で、十七歳で卒業を迎えるのが通常。楢崎は一年間の陸軍従軍後、日本電子工業に入社し、働きながら電気専門学校に学ぶ。大正八年(1919年)、二十歳の時に日本石油と契約し、絶縁油の研究に着手。正確な時期は不明だが、昭和10年前後に特殊絶縁油の開発に成功し、各方面から注目を浴びるようになったといわれている。この開発、事業化成功が評価されて、昭和十五年(1940年)に大日本炭油工業(株)に入社し、亜炭を原材料とする人造石油精製の研究を開始する。楢崎四十一歳のことだ。

 この当時の楢崎に関しては、大日本炭油工業の取締役が書いた推薦状など、いくつかの資料が残されており、彼の活動や人柄をある程度知ることができる。それらの資料から、楢崎皐月という男は優秀な電気技師であり、電気工学に関しては特異な才能を持っていたことがわかる。さらに、熱烈な愛国思想をもち、皇国史観にはまり込んだ人間で、主張しはじめたら後に引かない頑固さを持ち合わせていたようだ。

 電気工学の才能と、愛国思想の持ち主ということが評価されたのだろう、昭和十六年(1941年)、四十二歳の楢崎は石原莞爾を中心とする陸軍大陸派の要請により、満州吉林にあった陸軍製鉄技術試験所長に赴任する。楢崎本人の話によると、ここで「貧鉄から良質の鋼を製造することを目的とする研究をしていた」という。当時、楢崎が記録上所属していたのは関東軍直轄独立勤務第一中隊(厚生省援護局陸軍北方部隊略歴による)であり、鋼鉄の研究がほんとうかどうかは不明だが、軍の研究に携わっていたことは確かなようだ。

 吉林の赴任先には現地の人々も多数働いていた。そうした人々に敬意を表するために、楢崎は彼らが信仰する吉林郊外の北山にあった道院、娘々廟を訪ねた。廟の道士であるラウサンは、この道院に初めてやってきた日本人の楢崎に茶を勧めた。道士が庭に下り、湧き出る泉から水を汲んで茶釜に入れ、数枚の枯葉に火をつけると、またたく間に茶釜の湯が沸騰したという。

熱伝導率が異常なまでに高い茶釜に、楢崎は惹かれた。翌日ふたたび道院を訪れ、茶釜を譲ってほしいと申し出る楢崎に、ラウサンは驚くべき老子経の古伝を語った。「この茶釜はもともと日本で作られたものなのです。上古代の日本には、アシア族という高度文明を持つ人々がいました。彼らは八鏡文字を編み出し、優れた生活技法を作りあげていました。この茶釜は彼らアシア族が鋳造した鉄で作られたものなのです。彼らの生活技法のいくつかは※神農らによって中国に伝えられ、それが中国文化の基となりました」

※神農・・・神農は古朝鮮語では「すさのを」と呼ばれ、後に箕氏そのものが神農と同一視され、更に桓雄信仰が重なっていき、後に日本で須佐男命と呼ばれる神となった。

この話こそ、楢崎がカタカムナ文献と出会う出発点と言っていいだろう。その後まもなく日本は米英軍に宣戦を布告し、大東亜戦争がはじまる。戦時中、楢崎は大陸と日本を行き来するが、終戦直後に陸軍製鉄技術試験所は閉鎖され、帰国を果たしている。帰国直後の楢崎を支えたのは、星製薬社長であり衆議院議員も務めたことがある星一だった。

星一の協力を得て、楢崎は仲間たちと研究を続行した。戦前から続けられてきたもので、その中には大気中の微量電子測定もあった。

 昭和二年の暮れ、兵庫県の六甲山系金鳥山山頂付近の狐塚に寝泊まりし、大気電気の測定をしていた楢崎たちは、奇妙な老猟師と出会う。この猟師は平十字と名乗り、古い巻物を見せてくれた。それは見たところ江戸時代の初期に漉かれた和紙の巻物で、渦巻き状に丸と十字を基本にした図象が数十個ほど、毛筆で描かれていた。楢崎はこの図象を見た瞬間、満州吉林省の娘々廟で出会った道士の言葉を思い出した。

 この巻物こそ、道士の言葉にあった「アシア族」とか「八鏡文字」と関係しているに違いない。楢崎は猟師に巻物を貸してほしいと申し出た。だが猟師は「これはカタカムナ神社の貴重な御神体であるから、譲ることはもちろん貸すこともできない。ただし筆写することは差しつかえない」と答えたのだ。しかし、巻物の量から考えて、数日で書写できるような代物ではない。

「それではご厚意に甘えて書写させていただきます。これから毎日、私があなた様のお住まいまで通って書き写しましょう」楢崎がこう申し出ると猟師の顔が曇った。

わたしの家は山奥だから、毎日通うのはたいへんだ」どうやら自分の家を知られたくないようだ。いぶかる楢崎を前に猟師は続ける。「お前は今日からしばらく、この狐塚に住みなさい。わしが毎夜この巻物を持ってきてやる。ここで写せば良いのじゃ」

正月も近いこともあり、楢崎は仲間をかえし、翌日からは一人で塚での生活をはじめた。夜になると約束どうり巻物をもった猟師が現れ、夜明けが近づくと帰っていった。それから二十日余り、昭和二十五年一月中旬に楢崎が書写し終えた巻物の写しが『カタカムナノウタヒ』とされる書である。 平十字は、カタカムナの神を祀ったのはアシア族であり、その頭領はトウアンであると語った。アシアトウアンは遠い昔、天皇家を中心とした「天孫族」と戦って敗北したというのだ。

 楢崎の前に現れた平十字と名乗ったという猟師の格好をした人物、「わたしの家は山奥だから」という話、カタカムナの神を祀ったのはアシア族、そしてその頭領はアシアトウアンといわれていたことから間違いなく平十字はサンカの末裔だと推測することができる。出口王仁三郎の実家・丹波の上田吉松家に伝わる伝承からも、海系統の海人(あま)は海や川で漁をする海部で、山系統の山人は山岳地帯に住む山部であり、海部と山部の総支配人をアヤタチと呼び、これがサンカの大統領に相当するという。

そして、アヤタチの住む所が丹波の綾部市でありこのアヤタチこそアシア族の頭領トウアンにあたる人物と繋がってくるのだ。

 海部と山部の総支配人アヤタチとアシア族の頭領トウアンこそ須佐男命の末裔につながると考えている。その根拠としては出口王仁三郎や岡本天明の残した日月神示のなかで須佐男命は、荒ぶる神ではなく、アラフル(現生る)神とされ讃えている。

 しかし、ウエツフミでは確かに皇軍として全国各地の山の豪族を征伐して歩いていた側面もある。これをどう整理するかというと須佐男命は多数の種族で混沌としていた当時の日本を統括し秩序をもたらし、そこに古来縄文より引き継いでいた文明の叡智、『カタカムナ』を授けていった。しかし、時代が移り縄文カタカムナ由来の皇族も渡来の部族に侵略を受け、その権力を奪われた。

そして、須佐男命が巡狩した山々も、時代を経て、皇族を侵略した勢力によって征略されたのではないかと考えられる。

カタカムナはどこで生まれたのか

カタカムナは兵庫県六甲山系の山、金鳥山で楢崎皐月が平十字との出会いで世に出されたものだといわれている。

しかし、金鳥山で生まれた訳ではない。カタカムナとは言靈による読み解きにより高皇産霊神と神皇産霊神を統べる天之御中主大神の造化三神のことを現しているということが分かった。ここは別記事に記載しておく。カタカムナを読み解く

ということは、カタカムナとは造化三神の地にて、その構造を移写されたということになる。高皇産霊神と神皇産霊神を統べる天之御中主大神の造化三神の地というとなんのことだか理解できない方が大半だと思うが、実は高皇産霊神と神皇産霊神を統べる天之御中主大神は実在していたのだ。

その実態は『樹』だ。

その樹は宇宙まで届くと云われていた『扶桑の木』のことで大分県国東半島にその『扶桑の木』が実在していたと考えられる。

以下に扶桑の木についての参考文献を載せておく。

その昔、日本の西に「扶桑木(ふそうぼく)」と称する大木があり、外国の船がはるかにこの扶桑を認めて、日本の目当てとしたことから日本を「扶桑国」と云った。

また、中国のある字説に、太陽が木の下にあるのを「杳(ヨウ、くらい)」、木中に昇るのを「東」、木の上にあるのを「杲(コウ、あかるい)」とし、そこで云われる木は中国の東方の島(日本)にある「扶桑」であるとしている。

太陽(日)が巨大な御神木にあることから、木に一として本になる。

これが、日出る国 日本という名の語源。

日=天照大御神=太陽

木=高木の神=北極星

太陽と北極星に護られた國

引用:国東郷土史研究家 邦前 文吾

大分県には巨木にまつわる言い伝えが玖珠にも残っているが国東の六郷満山 両子山には扶桑の木があった。

聖地 両子山自体が巨木の跡地で、巨大な木は火山の噴火で焼け落ち、根元付近が化石化し山の尾根として残っている。

「扶桑の樹」は、中国の古代神話に登場する「宇宙樹」です。漢代の記述(前漢、東方朔の『十洲記』)によると、

「・・・・・東海の青い海に浮かぶ扶桑という島に茂る、桑に似た巨大な神木。その幹は、二千人ほどの人びとが手をつないで囲むような太さをもつ。樹相がとても変わっていて、根が一つ、幹が二本、この二本の幹はたがいに依存しあい、絡みあって生長する・・・・・」

と説かれています。さらに

「・・・・・九千年に一度、小さな果実をつける。この果実を食べた仙人は、金色の光を放ち、空を飛ぶことができる・・・・・」

とも記されている。

扶桑の樹は「若木」とも「博桑」とも呼ばれていた。桑の木に似て、生命を産みだす霊力を秘める、不思議な樹木だと信じられていた。

湯の湧く谷の上に扶桑があり、10個の太陽が湯浴みをするところである。水の中に大木があって、9個の太陽は下の枝にあり、上の枝には1個の太陽が今にも姿を現そうとしている。

『山海経 』-「海外東経」より

山の上に扶木がある。高さは300里、その葉は芥菜(からしな)のようである。そこにある谷は湯谷(湯のある谷)といい、上に扶木がある。1個の太陽がやって来ると、1個の太陽が出ていく。太陽はみな烏を載せている。

「大荒東経」より

この『扶桑木』こそ、高皇産霊神と神皇産霊神を統べる天之御中主大神だと繋がってくる。