仁聞菩薩を読み解く
仁聞(にんもん)は、奈良時代に大分県国東半島の各地に28の寺院を開基したと伝えられる伝説的な僧(神仏とする説もある)。仁聞菩薩とも呼ばれ、人聞とも表記される。
六郷満山は、養老2年(718)に八幡神の化身とされる仁聞によって開かれたという伝承を持つ国東半島の寺院群です。六郷満山と呼ばれる国東半島の密教寺院の多くは、養老2年(718年)に仁聞が開基したとの縁起を伝えている。これらの縁起によれば、仁聞は、最初に千燈寺を開基し、その後、国東半島の各地に計28の寺院を開いた後に、最初に開基した千燈寺の奥の院枕の岩屋で入寂したと伝えられる。また、熊野磨崖仏などの国東半島に多く残る磨崖仏も仁聞の作であると伝えられるものが多く、6万9千体の仏像を造ったとされる。修正鬼会を創始したとの言い伝えもある。
今日では、仁聞は実在の人物ではなかったとする説が有力である。六郷満山の寺院は、実際には、古来から国東半島にあった山岳信仰の場が、奈良時代末期から平安時代にかけて天台宗の寺院の形態を取るようになったもので、近隣の宇佐神宮を中心とする八幡信仰と融合した結果、神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成されたと考えられている。各寺院を開基した人物としては、仁聞の弟子として共に修行を行い、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の別当などを務めたと伝えられる法蓮、華厳、躰能、覚満といった僧侶を挙げる説もある。
仁聞については、宇佐神宮の祭神である八幡神自身あるいは八幡神に近しい神の仏教的表現であると考えられている。なお、国東六郷満山に数えられる両子寺奥の院においては、仁聞菩薩と八幡大菩薩を併せて「両所権現」として祀っている。これは両子権現とも呼ばれ、同寺や所在する山の名前の由来と思われる。
福岡県、佐賀県・長崎県・大分県・熊本県の33箇所の寺院からなる九州西国霊場は、奈良時代に仁聞と法蓮によって開設されたと称している。
仁聞・・・仁・・・万物一体の仁説 程明道の解釈では、仁を「万物(万民)一体」と解釈する。明道は天地万物一体を強調する儒者であり、「万物一体の仁」の説を次のような過程で展開していく。医書では手足の麻痺した症状を「不仁」と呼び、自己の心に対して何らの作用も及ぼしえなくなってしまっているためと解し、これを生の連帯の断絶とそれに対して無自覚であることを意味するとし、生意を回復せしめることが仁であるとした。つまり、「万物一体の仁」の一つの説は「知覚説」であり、痛痒の知覚をもつことを仁としているわけである。もう一つの説は、義・礼・智・信が、皆、仁であるとする立場であり、ここからは仁を「体」とし、五常を「用(作用)」と見なしていたことがわかる(明道にとって、仁は生である)。
仁 = イ + 二
イ・・・空中ノ水ノ霊。出る息なり。命なり。
二・・・火水ノ霊。天地なり。日月なり。火水ノ凝りなり。丹なり。非なり。従なり。
仁 = 命の陰陽
聞 = 門 + 耳
門・・・出入り口、形になる前の入り口を表している。つまり『カム』陽
耳・・・形態を要する一式つまり、『カタ』陰 またはミミ・33 3月3日=桃=国東 国東三十三霊場 北緯三十三度
仁聞とは、高皇産霊神と神皇産霊神を統べる天之御中主神 そしてその天之御中主大神の主(ス)の経綸 桃の道を聞くという意義と読み解いた。
つまり、仁聞菩薩は国東の六郷満山に高皇産霊神と神皇産霊神を統べる天之御中主神の存在を知らしめている者であり、その痕跡を辿り暗号化して残していたと考えられる。
主(ス)の経綸 桃の道とは
69000体の仏像の謎
69000体の仏像を六郷満山に残したと云い伝えられているのだが、誰が実際に山で数を数えたのだろうか。ここまでくるとこの69000という数字も秘密裏に暗号化されていることが理解できることだろう。
69000=6+9+0が3つ=693 まさにミロクがここに読み解けるではないか。
ミロクとは
69・・・陰陽であり高皇産霊神と神皇産霊神
3・・・三元(ミ) 剛体、柔体、流体これを上帝の全体という つまり天之御中主神の地という意義となる。
369・・・造化三神を現しており、まさにこの地が『カタカムナ』だという暗号を記した仏像の数字となる。