20220729令和四年[壬寅] 文月朔日(新月)宮崎 高千穂 天岩戸神社 西本宮にて
大麻飾り職人 秋田 真介
こだわり抜いた、最上級の素材。
【 大麻飾り『太御幣フトミテグラ』】・十六菊花結び(初公開)・神鏡 麻紐包み(初公開)・糸魚川産翡翠勾玉の輪飾り(麻紐通し)
完成いたしました。
(※御奉納した大麻飾りは常時、西本宮 本殿の祓戸にてご覧いただくことができます。)
大麻飾りの制作においては、構想はあったものの産みの苦しみがあり期限の三日前に舞い降りた内容は氣の遠くなるような作業量と幾重に重なる新たな手技への挑戦。「本当にできるのだろうか?」「間に合うわけないだろう!」「できなかったらどうするの?」常識的な思考は騒ぎ出す。
しかし天岩戸開き御神事に御奉納する太御幣たる大麻飾りできるのだからこそインスピレーションが湧いたしできるのだからこそ限界を超えるお題が与えられたこれまでの神事に携わった経験からそういうことがあると知っていたのでただただ真っ直ぐにありったけの氣の集中をもってして期限当日の朝4時に見事完成を迎えその場で倒れるように眠っていました。
大麻飾り職人 ∞ 太真道 ∞ としてもひとつ上の螺旋へと昇華したことと感じています。
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主催の猿田彦こと横山さんの発案による「鬼の角のある猿田彦」の特注神楽面 とともに御奉納する大麻飾り。
天岩戸の御前に立てる大麻飾り。
古事記 天岩戸開き神話に則り天太玉命がしたが如く・榊を立て・御統玉(勾玉や玉を連ねた輪飾り)を飾り・八咫鏡を取り付け・幣帛を垂らし・太(布刀)御幣(フトミテグラ)を手にする。
神話から見出し得る大麻飾りの本質を貫く太御幣。
勾玉と鏡と合わせて三種の神器となる「剣」が布刀(フト)でありそれは断つべきものを断つ祓い太刀であり連なるべきものを連ねる剣(連氣)まさに大麻の祓いと産靈である。
この考案しか思い浮かびませんでした。
そして天児屋命がしたが如く天岩戸神社 宮司 佐藤永周 様により祝詞を奏上していただき言靈による祈りが響き渡る。
その後、天鈿女命がしたが如く和泉による渦目(ウズメ)の舞にて渦の目より天に昇華していく。
丑寅(艮うしとら)の鬼門その裏鬼門にあたる未申(坤ひつじさる)艮の金神と坤の金神が出逢う瞬間 顕と隠がひっくり返るそこに渦目ウズメができ天之御中の柱立つ。
いよいよ天岩戸は押し開きてひとりひとりの内に坐します天照大神をこの世に顕現するときはまさにいまなり。
高千穂神楽面彫師 工藤省悟
日本の伝統文化を継承する
Kudo Shogo
1987年 宮崎県生まれ
高千穂町に代々続く神楽面彫師の家に生まれる。
三人兄弟の長男のため、いずれは自分が家の仕事を継ぎ神楽面彫師にならなければいけないと感じながら育った。
面彫師になることは決めていたものの、さまざまな経験をするために高校卒業後は、一般企業に就職。
そして、25歳の時、父に弟子入りを願い出る。
以後、偉大な面彫師の父を目標に鍛錬の日々を送っている。
「高千穂神楽面たかちほかぐらめん彫師」になろうとした、きっかけは?
高千穂にとって神楽は特別なもので、そこで用いられる神楽面はとても神聖なものです。小さい頃から、それを作る神楽面彫師も特別な仕事だと感じていました。
父から彫師を継ぐよう言われたことは一度もありませんが、父が神楽面彫師であることを常に誇りに思っていましたし、物づくりの仕事にも興味がありましたので、自然と自分も父のように、いずれは神楽面彫師になるのだろうと思ってはいました。
高校を卒業した後は一般の企業に就職し、大分、宮崎、東京で仕事をしてきました。これは、自分で25歳までは神楽面から離れ、外の世界でさまざまな経験を積みたいと決めていたからです。面を彫っているだけでは分からない感覚や発想を身に付けることで、いずれは神楽面を作り上げる時に生かせると思ったのです。
そして、25歳を機に、家に戻り正式に父に入門を願い出ました。
一刀彫で時間をかけて仕上げられる神楽面
【神鏡】山本合金製作所 山本 晃久
—最後の鏡師。
山本晃久 1975年生まれ。大学を卒業後、家業に入る。国内で唯一手仕事による和鏡・神鏡・魔鏡を製作する山本合金製作所で、神社の御霊代鏡や御神宝鏡の製作、博物館所蔵の鏡復元等に携わっている。
古代には呪術的要素が強かった青銅鏡。
弥生時代に大陸から伝来して以来、神の依代として特別な意味を持ち続けてきた。
鏡背の文様は、紙に描いた図案をもとに砂型にヘラで押すようにして施していく。砂の上に描いた神獣や花鳥風月の文様が溶けた金属の通り道になるため、指先の力の入れ具合も慎重になる。悩んではヘラを置き、ヘラを持ち替えては文様を描く。鋳型づくりは、鏡の大きさや図案の複雑さによって数ヶ月間かかることもある。
鏡背に刻まれた文様は、鏡面がすり減ると反射光にうっすら浮かび上がることがある。それを「魔鏡現象」と呼ぶ。
江戸時代、隠れキリシタンたちがひそかに信仰を繋ぐため、一見ふつうの和鏡にキリスト像やマリア像の文様を仕込んだ「切支丹魔鏡」の製法を受け継ぐのは山本合金製作所ただ一軒。門外不出の技術として5代目がその製法を受け継いでいる。
現在、手仕事で和鏡を製作する唯一の工房、山本合金製作所の五代目、山本晃久さんの紹介にこうした前置きが用いられることが増えた。父、富士夫さんも現役なので厳密には「最後のひとり」ではないが、稀少な存在には違いない。和鏡がまだ暮らしの必需品だった江戸末期・慶応2年に創業し、手仕事にとって激動の時代を乗り越えてきた鏡師の家の、その151年。
山本合金製作所が創業したのは、幕末の慶応2年(1866)。初代、山本石松は京都の名門鏡工房、金森家で修業をした後に独立。京都の伝統技法を受け継ぎ、その頃京都市内に数十軒あったという鏡師の世界に新規参入した。
当時、和鏡はまだ生活必需品だった。鏡師の仕事は新調のほか、使い古して曇った鏡の磨き直しも大きな割合を占めていた。各家庭の注文を取って回る「磨き専門」の鏡師も存在したというから、暮らしに密着した道具だったのだ。
しかし、明治時代の半ばになると急速に普及するガラス鏡の波に押されて鏡師は相次いで廃業する。金森家や禁裏御用で名高い青家などの名門も工房を閉じ、昭和に入る頃になると京都市内の鏡師は山本家だけとなった。山本家は初代石松の息子、真一さんが二代目を継ぎ、「京都の鏡師」として全国に知られた存在になっていた。
三代、真治(凰龍)さんが家業に入ったのは昭和9年。山本家はおもに神社の御霊代(みたましろ)となる神鏡を手がけており、国家神道全盛のこの時期に全国各地につくられた戦没者を弔う護国神社の神鏡の需要を一手に引き受けることになる。真治さんは、父とともに目が回るような日々のなか、さまざまな寸法、文様の鏡を手がけることになる。後に、鏡師として初の無形文化財になる真治さんの高い技術はこの頃に培われたのだろう。
■切支丹魔鏡
三代、真治さんが切支丹魔鏡の製法を解明したのは昭和49年(1974)。後に五代目となる晃久さんが誕生する前年のことだ。
魔鏡とは光を当てると鏡背に施された文様を反射光に投影する鏡のこと。古代中国ではこうした現象を起こす鏡を「透光鑑(とうこうかん)」と呼んで珍重し、日本でも江戸時代中頃からその存在が史料に登場する。特に名高いのは江戸時代に禁教弾圧を受けた隠れキリシタンたちが用いた「切支丹魔鏡」だ。一見、ふつうの鏡だが、光を当てると反射光のなかにマリア像やキリスト像が現れるこの鏡は、暮らしのなかで礼拝像を隠し持つには最適だったのだ。
魔鏡は、現存するものの原理が解明されなかったため、多くの学者にとって格好の研究対象だった。明治期に国のお雇い教師として日本に滞在したE・S・モースや、ジョン・ペリーといった科学者もその神秘性とともに本国でも紹介した。「魔鏡」という名称も当時欧米の学術誌で使われた”Magic Mirror”を直訳したものだ。
金属製の鏡は研磨すると徐々にすり減り、鏡背の文様を映すことがある。もちろん「魔鏡」という呼び名が無い時代にも、曇るたびに研ぎ直してすり減った鏡が魔鏡現象を起こすことはあった。その多くは偶然の産物で神秘的なものととらえられていたが、なかにはその原理を掴み意図的に魔鏡を製作した鏡師がいたはずだ。だからこそ、明らかに意図してつくられた切支丹魔鏡が残っている。
【勾玉の輪飾り】ぬなかわヒスイ工房 山田 修
千七百年の時を経て勾玉工房が復活!
・名前;山田修(ぬなかわヒスイ工房 代表)
・作家名;縄文
糸魚川市生まれの糸魚川育ち。幼少時から歴史好きで縄文人に憧れる。
セメントメーカー研究員、橋梁設計、建築リフォーム店店長を経て、1998年に「一人縄文人宣言」をして脱サラ。
縄文人になる修行として八ヶ岳南麓の三井農園で自然農法を学ぶ。
そこで出会った野口整体に「草や虫を敵としない自然農法と整体っちゃ、植物か人間の違いだけで本質は同じもんだ」と感銘を受け、神奈川県藤沢市に移住して整体を学び始めた元湘南ボーイ。
私が生まれるちょうど一年前、母は自宅敷地内でヒスイの勾玉を拾いました。
母は、私とその勾玉を作った古代人に何かの縁を感じたのだそうです。
下の写真の小さな勾玉がそれです。
左上の勾玉(自作レプリカ)が乗っている大きな石はその勾玉の背中の丸みを削ったらしい「筋砥石」で、棒状の石に乗った右下の勾玉が出土品の実物で、その下になっている棒状の石がお腹の抉れ部分を削ったらしき「棒砥石」・・・ちょっと疑問点あり・・・です。
ご覧のように勾玉と砥石の凸凹がぴったりと一致します。
勾玉とそれを作ったと思われる砥石が揃って出土している例は全国的にも稀だそうです。
私の小学三年の時に歴史好きの母の願いが叶って本格的な発掘調査が行われ、敷地地下には千七百年前の古墳時代前期のヒスイ工房跡が埋蔵されていることがわかり、「笛吹田遺跡」と報告されました。
糸魚川では縄文時代前期からヒスイの加工が始められ、古墳時代までその加工が続けられていました。
そして糸魚川の古名は「奴奈川郷」であり、「奴奈川郷」でヒスイ加工をしていた人々を「奴奈川族」と通称します。
ですから私の家の地下に眠っているのは、奴奈川族のヒスイ工房ということになります。
そして私が都会からUターン帰郷してから就いた仕事が勾玉職人。
やっぱり縁があったのです。
2013年4月に独立して、自宅に工房を作ることになりました。
そう、千七百年の時を経て、奴奈川族の勾玉工房が復活したのです。
奇しくも母が勾玉を拾ってから50年目の4月です。
これも私個人の想いだけでなく、ご先祖のお導きがあったに違いありません。
だから工房の名前はご先祖の「奴奈川族」の名を冠して、「ぬなかわヒスイ工房」としました。