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大日經開題 七種 第一 大日經開題(法界淨心)|原典・現代語訳・TENMON解読

大日經開題 七種の第1公開単位「第一 大日經開題(法界淨心)」を空海著作原典・現代語訳・TENMON解読に分けて読むページです。

1. 中立的な定義

大日經開題 七種の第1公開単位「第一 大日經開題(法界淨心)」を空海著作原典・現代語訳・TENMON解読に分けて読むページです。

2. 書誌・著者・底本・対象範囲

T58 No.2211, p.1a04–p.12a19/対象:第一 法界淨心|T58, p.1a04–p.3a04

3. 原典

第一 大日經開題(法界淨心)
〔T58, p.1a04–p.3a04〕
夫法界淨心超十地以絶絶。一如本覺孕三身而離離。況復曼荼性佛圓圓之又圓。大我眞言本有之又本。風水之龍不得動其波瀾。業轉之霧不能蔽其赫日。恒沙眷屬鎭住自心之宮。無盡莊嚴優遊本初之殿。然非輪王之性金剛之種。誰能見三密之曼荼。聞四印之神祕。所謂大毘盧遮那成佛神變加持經者。是則諸佛之大祕衆生之極妙。報應諸佛祕而不談。變化如去默而不答。補處大士不識其一人。飮光薩埵不聞彼逗留。至如法界宮中祕主扣寂之日。自在殿内密王開庫之朝。發心殿而示珍財。除重關以受自樂。三等之理彼此無異。五智之覺人我同得。不起于座金剛即是我心。不經三劫法身即是我身。三部諸尊宛然而具。三妄衆障忽爾不現。無量福智不求自備。無邊通力不營本得。跛驢不得比滅沒之迹。疲車誰能角神通之行。經之大意教之大綱蓋如此耶經題 此經總有三本。一法爾常恒本。諸佛法曼荼羅是也。二分流廣本。龍猛所誦傳十萬頌經是也。三略本。有三千餘頌雖頌文三千經卷七軸。然猶以略攝廣以小持多。一字中含無邊義。一點内呑塵數理。何況百字字輪具説此經。三千餘偈何理不顯。廣略雖殊理致是一。諸家釋經者皆三分判經。今此經且約三部而釋。初如是等序分者當身密即爲佛部示身無盡藏故。次爾時世尊至囑累終是語密即爲蓮華部現語無盡藏故。信受等文是意密即爲金剛部示意無盡藏故。序正雖殊祕妙是一。身語不同平等不異大毘盧遮那成佛神變加持經因陀羅王者。此則梵漢和雜翻也。大成神變加持經王者唐言也。餘是梵言。若悉翻漢語者。曰大日除暗遍明成正覺者神變加持經帝釋王。若據具梵本名。且就初名釋。初釋名者。竪横無邊際故大。數量過刹塵故大。最勝最上故大。故文云大樓閣寶王高無中邊。又云十佛刹微塵數等。曼荼羅者無比味無過上等。樓閣寶王者。即如來三昧耶身。三昧耶身遍十方虚空界無所不至。住其中大曼荼羅身亦復如是。法羯二身可知亦爾。又云毘盧遮那佛身口意業遍虚空等。如是等文表如來四種法身四種曼荼羅身三密業用遍滿一切處。故初擧大言讃塵數之徳。大日四種身其數過塵數。此大名亦復如是。毘盧遮那者。或云日之別名。除暗遍照爲義。或云光明遍照或説高顯廣博。並皆得其義。此大名普被下諸字。成者不壞故不斷故不生故不滅故常恒故堅固故清淨故無始故無終故。此則法爾所成非因縁所生故。文云願識心心勝。自然智生説。又我覺本不生。出過語言道。諸過得解脱。遠離於因縁。知空等虚空。又云當知眞言果。悉離於因縁。又云普賢法身遍一切。能爲世間自在主。無始無終無生滅。性相常住等虚空。又云其性常堅固。知彼菩提生。不染汚常住。諸法不能動。圓滿如是無量無邊之徳義故曰成。此成承上大字故。即是大成就之成也。非小成之成。佛者梵語之略也。具云沒駄翻云覺者。言覺者不眠名覺開敷爲義。又常明故照了故如實知見故。一切賢聖一切凡夫各有分覺。然未究竟。如來兩覺圓滿洞達故曰大覺。此覺亦非因縁所生法然所得。故文云法佛自然智已離一切暗。又云此眞言相非一切諸佛所作不令他作亦不隨喜。何以故以是諸法法如是故。若諸如來出現若諸如來不出諸法法爾如是住。謂諸眞言法法爾故。解云。眞言者蓮華覺智。相者佛部即如來身也。金剛部即心也。此文擧兩并一祕意可知。神變者不測曰神異常名變。即是心之業用。始終難知。三種凡夫不能識知。十地聖者未知其邊。唯佛能知能作。故曰大神變。此神變無量無邊。大分爲四。一下轉神變。二上轉神變。三亦上亦下。四非上非下。下轉者。從本覺神心隨縁流轉作六道之神變。又聲聞縁覺等分作神通變化。並是迷少之神變。法佛如來從大悲大定能作難思之事業。驚覺聾蟄之耳目。如是等事下轉神變。上轉神變者。若有衆生發菩提心修行自乘教理昇進。證本覺一心則能轉變迷識神心證得自乘覺智。一切難思妙業隨心能作。即是上轉神變。亦上亦下者。法界身雲恒沙性徳。無形不形無像不像。以一切形像爲一切法性塔。是則臨上則下臨下則上。並皆具 四種身起大神通。故云亦上亦下神變。非上非下神變者。非有爲非無爲一心本法及不二之中不二本法。越諸戲論絶諸相待。難思之本變化之源。故云非上非下神變。加持者。古云佛所護念又云加被。然未得委悉。加以往來渉入爲名。持以攝而不散立義。即入我我入是也。阿等六字者法界之體性。四種法身十界依正皆是所造之相。六字則能造之體。能造阿等遍法界而相應。所造依正比帝網而無礙。雖此不往彼不來。然猶法爾瑜伽故無能所而能所。故頌曰
六大無礙常瑜伽 四種曼荼各不離
三密加持速疾顯 重重帝網名即身
法然具足薩般若 心數心王過刹塵
各具五智無際智 圓鏡力故實覺智
經者貫串不散之義。以語密爲經以心密爲緯。織三業之絲爲海會之錦。錦文千殊同名爲錦。佛相萬差共得稱佛。經被雜色衣執金剛者即表此義。上從大日尊下至六道衆生相。住各各威儀顯種種色相。並是大日尊之差別智印也。非更他身。故經文云我即法界我即金剛身我即天龍八部等。如是法身互相渉入猶如絹布絲縷竪横相結不散不亂。是則經之義也。因陀羅者。梵語也。翻云帝釋。此最勝義無上義渉入義。如釋天能三十三天王中其徳最上最勝。此經亦如是。諸大乘衆教中無有等比。又如帝釋珠網重重交映彼此渉入。四種法身四種曼荼。互相渉入無盡無盡。非算數譬喩所知。故文云勝上大乘句。諸佛大祕密。我今悉開示。此表最上最勝。又如虚空無量智成就正等覺顯現。此表佛智佛身無邊際。又云等正覺眞言。言名成立相。如因陀羅宗。諸義利成就。此示一能含一切一切又含一互相渉入。王者自在爲名高貴爲稱。梵音囉惹。囉字聲者所謂苦惱聲啼哭愁歎無主無歸無救護聲又塵垢義。惹字聲者最勝義高貴義自在義殊勝義勇猛義端正義智慧義。能摧滅一切衆生憍慢自高陵蔑他義。解云。苦惱啼哭等聲者。所化之境。最勝智惠等。能化之人法也。佛爲一切衆生作自在王。能以智劍摧破一切衆生無明等苦。此經能説四種法身帝王自在義故云王。釋名竟次就次第相承且釋淺略義者。大毘盧遮那者自性法身即本有本覺理身。次成佛者受用身。此有二種。一自受用二他受用修得即始覺智身。神變者他受用應身即變化法身。加持者等流身即是三界六道隨類之身。若攝四爲三者。神變加持合爲一。即法應化三身如次可知。又次配三大釋者。大毘盧遮那者體也。成佛者相也。神變加持者用也。又次約人法喩釋者。並皆具人法喩三義。何者大者若一切物事彼此相望必有大小之名。須彌非大芥子非小。螢火即大日光即小。蟭螟爲大大鵬名小。須彌之大望大士之身中不大。芥子望毛端則大。如是相待大名重重。今所謂大者究竟最極之大即大中之最大。以世間所見大顯出世幽遠之大。顯現爲喩不見爲法。此即人也。則一大具三。毘盧遮那者光明遍照之義。一燈遍一室而除暗。一日遍一天而奪黒。然則遍明之名遍于諸物。成者以世間小成喩出世大成。佛者覺知義。一切衆生亦有覺知。擧此小覺之喩標彼大覺之法。神變者亦有大小。世間外道猶起神變。以此淺事喩之深法。餘亦准知。次據梵名釋者。初字有二義。一字相二字義。字相者我義。字義者我不可得義又空義。此亦有無量我義。神我假我實我等是。毘盧遮那則名大我。我則大自在義。故又云内心之大我。我一切本初等。字者一切法因縁不可得義。字者一切法言説不可得義。字者一切法塵垢不可得義。字者一切法無遷變義。字者一切法名不可得義。字者有不可得義。字者諦不可得義。字者言語義。字者一切法界義。字者妙觀察智定義。字者法界不可得義。如是義無量歴劫何盡。如是諸字門皆以初阿字爲本體。所謂字則大日之種子眞言。此經以此一字爲體。是經始終唯説此字義。此字具無量無邊義且説小分。經云

4. 検索用正規化本文

原典表記を検索可能な文字列として保持する。意味を変える自動置換は行わない。

5. 訓読・語法・異体字

異体字・旧字体・歴史的仮名遣いを原典欄に保存し、校異が未確定の箇所は断定しない。

6. 現代語訳

第一 法界淨心|T58, p.1a04–p.3a04
経題を、大・毘盧遮那・成佛・神變・加持・經・因陀羅・王・阿字へ分解する七種中の中核稿。

## 原典
開始:`夫法界淨心超十地以絶絶。`
終端:`此字具無量無邊義且説小分。經云`
## 真相現代語訳
法界として清らかな心は、菩薩の十地を越え、比較や区別の言葉も届かない。本覚は三身を内に孕み、曼荼羅として現れる本性の仏は円満のうえに円満である。無数の眷属と荘厳は自心の宮に本来具わる。三平等と五智は仏だけの所有物ではなく、座を立たずに金剛は我が心、長劫を経ずに法身は我が身である。
経には法爾常恒本、十万頌の広本、三千余頌・七巻の略本がある。少ない文字は広大な義を失うのではなく、一字に無辺義、一点に塵数理を保持する。序分は身密・仏部、正宗分は語密・蓮華部、信受は意密・金剛部に配されるが、三密の妙は一つである。
「大」は絶待の無辺、「毘盧遮那」は内外・昼夜を超える遍照、「成」は因縁によって新しく作られない法爾の大成就、「佛」は如実に知る大覚者である。「神變」は心の業用が機根に応じて現れること、「加持」は往来渉入し摂して散らさない入我我入、「經」は語密を経糸、心密を緯糸、三業を糸として法界の錦を織ることをいう。すべての字門は阿字を本体とし、この経一部は阿字の無量義を説く。
## 言灵構造解読
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大=限界づけられない全体

毘盧遮那=全体が光として遍く顕れる

成佛=本覚が現実の覚知となる

神變=覚りが姿・声・働きへ変化する

加持=仏と衆生が相互に入り、散らず保持される

經=身口意を縦横に織る
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即身成仏は別の存在への変身ではない。心・身体・声に本具する法身・五智・曼荼羅を、三密の瑜伽によって顕在化することである。
## HOLD
電子本文で欠けた悉曇字母は補わない。どの字母が各不可得義に対応するかは影印照合まで未確定。

7. 文献・教学上の文脈

空海著作の作品内構造と密教教学上の文脈を優先し、後代注釈やTENMON比較を空海本人の文へ混入させません。

8. TENMON言灵構造解読

第一 大日經開題(法界淨心)
〔T58, p.1a04–p.3a04〕
真相現代語訳

法界そのものとして清らかな心は、菩薩の十地を越え、比較や区別の言葉さえ届かない。すべてを一つに貫く本覚は、法身・報身・応身の三身を内に孕みながら、しかもそれらの分別を超えている。まして、曼荼羅として現れる本性の仏は、円満のうえにも円満であり、真言としての「大いなる自己」は、もともと有るもののさらに根本である。風や水の龍が起こす波も、この心の本体を動かせず、業の転変が生む霧も、その赫々たる太陽を覆えない。無数の眷属は自心の宮殿に常住し、限りない荘厳は本初の殿堂に自在に遊んでいる。

しかし、転輪王のような器と金剛の種性がなければ、だれが三密の曼荼羅を見、四種の印の神秘を聞くことができようか。『大毘盧遮那成佛神變加持經』とは、諸仏の大秘密であり、衆生にとっての究極の妙である。報身・応身の諸仏でさえ、その秘密を容易には語らず、化身の如来も黙して答えない。次に仏となる大菩薩でさえ、その全体を知る者はほとんどなく、飲光と呼ばれる迦葉の系譜の修行者も、その境地に長く留まることを聞いていない。

ところが法界宮において秘密主が寂静を問い、自法楽の殿で密教の王が宝庫を開くとき、発心の殿には内なる財宝が示され、幾重もの関門が除かれて、自らの法楽を受ける。心・仏・衆生の三つは本質において平等であり、五智の覚りは彼と此、他者と自己の双方に開かれている。座を立たずに、金剛の心はそのまま自分の心であり、三劫を経ずに、法身はそのまま自分の身である。仏部・蓮華部・金剛部の諸尊は、本来すでに具わり、三妄をはじめとする障りは忽然と姿を消す。無量の福徳と智慧は、外に求めずとも自ら具わり、無辺の神通力も、新たに作り上げるのではなく本来すでに得ている。歩みの遅い跛驢や疲れた車を、跡さえ残さず進む神通の行と比べることはできない。これが、この経の大意であり、教えの大綱である。

この経に三種の本がある

この経には総じて三つのかたちがある。第一は、法爾として常に存在する本、すなわち諸仏の法曼荼羅そのものである。第二は、広く流布した広本で、龍猛が誦出したと伝えられる十万頌の経である。第三は略本で、三千余頌、七巻からなる。三千頌という短い形でありながら、広大な内容を略本に収め、少ない文字に多くを保持している。一字の中に無辺の義を含み、一点の中に塵の数ほどの理を呑み込む。まして百字の字輪がこの経を具説し、三千余偈が並ぶなら、現れない理がどうしてあろうか。広本と略本は分量こそ異なるが、理趣は一つである。

諸家は経を序分・正宗分・流通分の三分に判ずるが、ここでは三部によって見る。冒頭の「如是我聞」などの序分は身密に当たり、仏部として身の無尽蔵を示す。次に「爾時世尊」から付嘱の終わりまでは語密に当たり、蓮華部として語の無尽蔵を現す。最後の信受奉行などは意密に当たり、金剛部として意の無尽蔵を示す。序分と正宗分は形のうえでは異なるが、秘密の妙は一つである。身と語は異なっても、平等の本質は異ならない。

経題の全体

「大毘盧遮那成佛神變加持經因陀羅王」という題は、梵語・漢語・和語が混じった翻訳である。すべて漢語に直せば、「大日・暗を除き遍く明らかにする・正覚を成ずる者・神変加持の経・帝釈王」という趣旨になる。以下、その題を語ごとに解く。

「大」とは、縦にも横にも際限がないこと、数量が仏国土の微塵を超えること、そして最勝・最上であることをいう。大楼閣宝王は高く、中も辺も測れない。曼荼羅は比べるもののない味、これを超えるもののない境地である。宝楼閣は如来の三昧耶身であり、十方虚空界に遍満する。そこに住する大曼荼羅身も同じで、法身・羯磨身など四種の身もまた一切処に遍満する。大日如来の身・口・意の業が虚空に遍くという経文は、四種法身、四種曼荼羅、三密の働きがあらゆる場所を満たしていることを示す。

「毘盧遮那」は太陽の別名ともいわれ、暗を除き、遍く照らすことを意味する。また光明遍照、高く顕れ広く博いという意味にも解される。ここでの「大」は、この後に続くすべての語にかかる。

「成」とは、壊れず、断たれず、生ぜず、滅せず、常恒で、堅固で、清浄で、始めなく終わりがないことをいう。これは因縁によって新しく作られる成就ではなく、法爾として本来成っている成就である。「私の覚りは本来生じたものではなく、言語の道を超え、過失を離れ、因縁を遠く離れ、空は虚空のようである」と説かれる。真言の果も因縁を離れ、普賢の法身は無始無終・無生無滅で虚空に等しい。だからこれは小さな達成ではなく、「大成就」の成である。

「佛」は梵語 Buddha の略で、「覚者」である。眠らず、開き、常に明らかで、照らし、実相をありのままに知見する者をいう。賢者も凡夫もそれぞれ部分的な覚りを持つが、如来は本覚と始覚の二覚を円満にしているので大覚という。この覚りも因縁によって後から作られたものではなく、法爾として得られる。真言の相は諸仏が作り出したものではなく、如来が現れても現れなくても、諸法は法爾としてそのように住している。

「神變」とは、測り知れないことを神といい、常態を超えて現れを変えることを変という。これは心の働きである。その始終は知りがたく、凡夫も十地の聖者もその辺際を尽くせず、仏のみが知り、行う。神変には大別して四種ある。第一は下転神変で、本覚の真心が縁に従って六道へ流転して現れる変化、また声聞・縁覚などの神通、そして法身如来が大悲と大定から、迷いに沈む者を驚き覚ますために現す働きである。第二は上転神変で、衆生が菩提心を起こし、教理に従って昇進し、本覚一心を証して、迷いの識を覚智へ転じる働きである。第三は上でも下でもある神変で、法界身の無数の徳が、形なきものにも形をとり、像なきものにも像をとり、あらゆる形像を法性の塔とする。上に臨めば下となり、下に臨めば上となり、四種身を具して神通を起こす。第四は上でも下でもない神変で、有為でも無為でもなく、二元を超えた不二の中の不二であり、あらゆる戯論と相対を超えた、変化の根源そのものである。

「加持」は、古くは「仏に護念される」「加被される」と訳されたが、それだけでは尽くせない。「加」は往来し、互いに入り合うこと、「持」は取りまとめて散らさないことをいう。すなわち「仏が私に入り、私が仏に入る」入我我入である。阿字など六字・六大は法界の体性であり、四種法身と十界の依報・正報はそこから現れる相である。能造の六大は法界に遍満し、所造の世界と身体は帝釈網の珠のように無礙である。こちらがあちらへ移動し、あちらがこちらへ来るのではない。それでも法爾の瑜伽によって、能と所を超えながら能所が働く。

六大は互いに妨げず、常に瑜伽している。四種曼荼羅は互いに離れない。三密の加持によって速やかに顕れ、重々無尽の帝網を即身という。法爾として一切智を具え、心王と心所は仏国土の微塵を超える。各々が五智・無際智を具え、円鏡の力によって真実の覚智となる。

「經」は、貫き連ね、散らさないという意味である。語密を縦糸、心密を横糸とし、身・口・意の三業の糸を織って、海会の錦を作る。模様が千差万別でも錦は錦であり、仏の姿が万差あってもみな仏と呼ばれる。大日尊から六道の衆生に至るまで、各々の威儀と色相は、すべて大日尊の差別智印であり、別の身体ではない。法身同士が絹布の縦糸と横糸のように互いに入り合い、乱れず散らない。これが経の意味である。

「因陀羅」は帝釈で、最勝・無上・相互に入り合うことを表す。帝釈が三十三天の王として最勝であるように、この経も大乗諸教の中で比類がない。また帝釈の珠網が互いを映し合うように、四種法身と四種曼荼羅が無尽に渉入する。一つは一切を含み、一切はまた一つを含む。

「王」は自在・高貴をいう。梵語 rājan の音を、苦悩・啼哭・愁歎・無主・無帰・無救護の声を示す側と、最勝・高貴・自在・勇猛・端正・智慧を示す側に分けて説く。前者は救われるべき境、後者は救う智慧と法である。仏は智慧の剣で無明の苦を破る自在王であり、この経は四種法身の王者としての自在を説くので「王」という。

四身・三身・体相用

題を身に配すれば、大毘盧遮那は自性法身、成佛は自受用・他受用の受用身、神變は他受用・応身すなわち変化法身、加持は三界六道に応じて現れる等流身である。四身を三身に収めれば、神變と加持を一つにし、法身・報身・化身となる。また三大に配すれば、大毘盧遮那は体、成佛は相、神變加持は用である。

世間の大小は比較によって変わる。須弥山も、さらに大きな身体と比べれば大ではなく、芥子も毛端と比べれば大きい。しかしここでいう「大」は、相対を超えた究竟の大である。世間に見える大を比喩として、見えない出世間の大を示す。毘盧遮那の遍照、成佛の大成就、佛の大覚、神變の大用も同じである。

最後に梵字・字門による釈義が説かれる。最初の字は、字相として「我」、字義として「我は不可得」「空」を示す。神我・仮我・実我など多くの我があるが、毘盧遮那は「大我」、すなわち大自在である。その後に列挙される悉曇字には、因縁不可得、言説不可得、塵垢不可得、無遷変、名不可得、有不可得、諦不可得、言語、法界、妙観察智、法界不可得などの義がある。ただし、提示された電子本文では字母そのものが欠落しているため、どの義がどの悉曇字に対応するかは断定しない。すべての字門は阿字を本体とし、阿字は大日如来の種子真言である。この経一部は始終、阿字の無量義を説くのである。ここではそのごく一部だけを示した。本文は「経にいう」と続くが、この第一種はそこで終わる。
言灵構造解読

1. 経題は「外から救いが来る物語」ではなく、内在が顕現する順序

経題の連鎖は、次の状態遷移として読める。


= 限界づけられない全体

毘盧遮那
= 全体が光として遍く顕れる

成佛
= 本来具わる覚りが現実の覚知となる

神變
= 覚りが機根に応じて形・声・働きへ変化する

加持
= 仏と衆生が相互に入り合い、散らず保持される


= 身口意を縦横に織って、関係を切れない構造にする

因陀羅王
= 一即一切・一切即一の相互映照を自在に統治する

「即身成仏」の核心は、別の存在へ変身することではない。本文が「金剛即是我心」「法身即是我身」と語るように、心・身体・言葉の奥にすでに法身・五智・曼荼羅が働いていることを、三密の実践によって顕在化することである。

2. 加持の言灵

加持は一方的な注入ではなく、`往来渉入`と`攝而不散`である。

加 = 相互に通い、互いへ入る
持 = ばらばらにならず、一つの方向へ保つ

したがって言灵的には、声だけが働くのではない。真言・印・観想が、声・身体・心を同時に結び、仏の働きと行者の働きを分断しない状態を作る。

3. 経は織物である

語密を経糸、心密を緯糸、三業を糸として錦を織る比喩は、空海の声字観を端的に示す。意味は文字の背後に隠れているのではなく、音・形・動作・心が交差するところに現れる。異なる姿は別物ではなく、大日の差別智印として一つの法界を織っている。

4. 阿字の制動

阿字は「本不生」の中核であるが、提示本文では複数の悉曇字が欠落している。ゆえに、欠落箇所へ任意の梵字を補い、その音義を断定することは禁止する。確定できるのは、諸字門は阿字を本体とし、この経全体が阿字の無量義を開示するという本文の主張である。

5. 真相裁定

第一種が示す真相は、覚りが遠い未来に外から与えられるということではない。法界・曼荼羅・五智・諸尊は、自心と自身体の深層に本有する。修行とは、まだ存在しない仏を作ることではなく、迷いによって分断された身・口・意を再び瑜伽させ、本来の無礙を現象の中に顕すことである。
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9. 比較研究

言灵秘書・古事記・カタカムナとの照合はTENMON比較研究であり、空海がそれらを直接解読したという歴史主張ではありません。

10. 未確定事項・反証・HOLD

未検証の悉曇字形・サンスクリット語形・歴史的直接継承を断定しません。

11. 証拠・確度

空海著作原典=A0、天聞作成の訳・整理=A1、TENMON構造解読=E5、比較仮説=E6。

12. 出典・巻・頁・行

第一 法界淨心|T58, p.1a04–p.3a04

13. 関連項目

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