水穂伝とは

山口志道(山口杉庵)

山口志道(しどう)[1765~1843]の『水穂伝』には、日本の創世神話の神々の言霊的解釈が記されています。
この『水穂伝』は、志道の言霊学の集大成とも言える貴重な文献であり、出口王仁三郎の時代の大本や、大本から派生していった教団にも少なからぬ影響を与えました。

言霊学の最高峰『日月神示』の岡本天明が口語訳したものを新たに組み直し、出口王仁三郎にも多大な影響を与えた言霊学者・山口志道の名著。

1765-1842 江戸時代後期の国学者。
明和2年生まれ。文化12年荷田訓之から稲荷(いなり)古伝をうける。江戸にでて国学,国語学をまなび,独自の神代学を創始した。のち京都にすみ,「水穂伝」をあらわした。天保(てんぽう)13年7月11日死去。78歳。安房(あわ)(千葉県)出身。初名は長厚。通称は利右衛門。号は杉庵(すぎのいお)。著作に「祝詞(のりと)正解」など。

「言霊学」研究者・国学者山口志道は国学者荷田春満(かだのあずままろ)の流れを汲む荷田訓之(かだののりゆき)に学び、伝授された「稲荷古伝」が手がかりとなり、山口家に伝わる神宝「布斗麻邇御霊」古事記神代巻に照らしてみると、これが天地の水火(いき)の教えであることを悟ったのである。
これが古事記と布斗麻邇の出会いである。
志道は、これに基づいて、自身の「言霊学」を構築し、丹波亀山で、「水穂伝」(1834)を著したのである。

安房国長狭郡寺門村(現在の鴨川市寺門)の村存立当時からの古い家柄の農家に生まれた山口志道は、幼少時の名を長厚、通称を利右衛門という。学問に優れ、国学のほかに、漢詩、和歌、俳句、彫刻等に才能を注いだ。
25歳の頃江戸に出て、まず漢学や漢詩を学び、続いて狂歌や俳句をたしなむようになったと伝えられています。その縁から、荷田春満(かだのあずままろ)の流れを汲む荷田訓之(かだののりゆき)に学び、「稲荷古伝」を伝授される。五十音と仮名の成立原理を説き、一言一語の中に言霊が宿っているとした神代学を作り上げた。
旅を好み、大阪や和歌山など、壮年期は「道中記」を残した。
65歳の頃京都に出向き、国書を公卿に講じ、門人には、有栖川宮や柳原隆光、岩倉具集、白川資敬王など公卿が多く名を連ねていた。さらに光格上皇、仁孝天皇の侍講もつとめる。その業績がたたえられ、禁階紅梅1枝を賜わした。
また、小倉百人一首の研究を行い、山辺赤人の歌にある田子の浦は、勝山の海辺とする説を主張した。
晩年には、「水穂伝」「百首正解」を出版し、1842年に京都で病に倒れ78歳で亡くなりました。その後生前の功績により、「齋瑲霊神」の神号が贈られた。

 

稲荷大社

参考:https://kyoto-stories.com/6_5_fushimiinari/

稲荷大社の秦氏が鴨族の血を誇っていたことはあまり知られていません。そして稲荷大社の古伝によれば、稲荷山には、やはり鴨族に関係の深い神々が祀られているのです。稲荷山が鴨族にとっての聖地なら、4世紀ごろの築造とみられる古墳も鴨族に関係するのかもしれません。また元来、山代国の渡来系の秦氏と関係が深かったのは、建角身命(綿津見豊玉彦)の子孫で、ワニ氏ら海神系の氏族です。

稲荷山には春日峠があり、稲荷信仰が深かった藤原氏にちなむともいわれますが、春日はワニ氏から出た春日氏の名残りのようにも思えます。そしてたしかに鴨族と藤原氏(中臣氏)も古くからつながりがあったようです。稲荷山を東に降りると山科に出ますが、山科はワニ氏同族の小野氏や大宅氏が拠点を置いたところであり、中臣鎌足が邸宅を築いたところでもあります。なお、下鴨神社の記録によれば、建角身命は八重事代主神です。そしてこれまた私見ですが、猿田彦神(比良明神・白鬚明神)でもあるようです。

稲荷大社の主祭神は、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)で、食物を司る女神とされています。稲荷大社の記録によれば、宇迦之御魂大神は、広瀬坐若宇加乃女命(ひろせにますわかうかのめのみこと)であり、伊勢外宮の豊受大神(とようけのおおかみ)や、丹波国與佐郡(与謝郡)の比沼麻奈井原坐御饌津神(ひぬのまないのはらにますみけつのかみ・亦の名を倉稲魂)や、近江国野洲郡の小津神社の宇賀魂(倉稲魂・うかのみたま)とも同躰であると記されています。また、稚産霊(わくむすび)や保食神(うけもちのかみ)、大気都比売命(おおげつひめ)と同躰とも。ただし、稲荷大社に関する初期の客観的な記述では稲荷神としか記されないため、のちに倉稲魂とみなされたとも考えられています。

『古事記』によれば、宇迦之御魂(ウカノミタマ)はスサノオと神大市比売との子で大年神の妹とされています。宇迦之御魂の兄、大年神は伊怒比売命(いぬひめ・伊奴姫神)を娶っていますが、「西角井従五位物部忠正家系」によれば、天穂日命と天甕津日女命(あめのみかつひめ)との子が天夷鳥(あめのひなとり)と伊怒比売(いぬひめ)です。そして伊怒比売と大年神の間に向日神が生まれたとされています。向日神は御歳神ともいわれています。

一方、「出雲国風土記」では、天甕津日女命とよく似た名前の天御梶日女命(あめのみかじひめ)を娶ったのがアジスキタカヒコネです。一般に、天甕津日女命と天御梶日女命は同一ともいわれますが、もし母娘だとしたら、伊怒比売を娶った大年神はアジスキタカヒコネになるのかも…? なお「古事記」で大年神の子とされる御歳神は、「旧事紀」によれば八重事代主命の妹の高照光姫大神命(たかてるひめのおおかみ)です。筆者はアジスキタカヒコネと八重事代主神は同神とみているので、系譜は合いませんが、たぶんこの海神系一族の女神かと思われるのです。稲荷大社の古伝では、大年神は田中社の客神や大田社(猿田彦)分身などとみられていました。田中社の祭神は建角身命ともされています。また、大年神は稲宝の鶴となって来臨するため、田中社では一切の鳥を獻ずることを忌む、とされていました。

なお、倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)にも大年神の真鶴伝説が記されています。倭姫命が天照大神にお供えする御神饌を求めて志摩国に行ったとき、大年神が真鶴と化して稲穂を落としたため、地主の伊佐波登美命(いざわとみのみこと)に命じ、そこに天照大神の御魂を祀る神殿を造らせ、伊雑宮(いざわのみや)となったとされています。偶然かもしれませんが、『書紀』によれば、八咫烏が神武東征で兄磯城・弟磯城に帰順をうながす際にも「天神子召汝。怡奘過、怡奘過。(天つ神の子が汝を召している。イザワ。イザワ)と鳴いています。誘っているには違いないのですが、『過音、倭』と注記され、意図して「イザワ」と読ませているのです…?

ところで和銅4年(711)に創祀されたといわれる伊奈利社ですが、史書に現れるのはそれから100年以上も経ってからで、それは秦伊呂具が祀った伊奈利社ではなかった可能性があるのです。また、上記とは別の「山城国風土記」逸文には、伊呂具が射た餅が白鳥となって飛んでいったのは南鳥部の里(比定地は今熊野・泉涌寺のあたり)と書かれていて、イナリの神が祀られたのは、稲荷山以外にもあった可能性がほのめかされています。

『類聚国史』によれば、平安時代の天長4年(827)正月に淳和天皇が病に倒れ、原因を占うと、東寺の五重塔建立のために稲荷神社の木材を伐採した祟りと出ました。朝廷は稲荷社に従五位下の神階を贈り祈祷すると、淳和天皇の病は治まったと伝えられています。これは稲荷社が史書に登場する最初の記事です。また、淳和天皇の御世に稲荷神は密教と習合したようで、『北院御室拾葉集』には、淳和天皇の日記「天長御記」云くとして、東寺の守護天らは稲荷明神の使者であり大菩薩心の使者神である、と記されています。その後、稲荷社は東寺の鎮守社となります。

稲荷社の縁起と空海

稲荷社の縁起については、空海が稲荷神を勧請したというもうひとつの伝えがあります。それは荷田氏から出たもので、荷田氏は稲荷社ができる以前から稲荷山に住んでいた竜頭太(りゅうとうた)の子孫と伝えられています。鎌倉中期ごろに成立したとみられる『稲荷鎮座由来記』「稲荷大明神流記」には、次のような話が記されています(大意)。

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弘仁7年(816)4月の頃、空海は紀伊国田辺で修行中に、身の丈八尺、筋骨たくましく威厳のある老翁に出会った。老翁は空海を見て「私は神である。そなたには威徳が備わっている。私の弟子となり菩薩行に励むがよい」といい、空海も「わたしも霊山であなたと約束したことを忘れていません。私は密教を広めたいのでどうか仏法で擁護してください。京都の南西、九条にある東寺の大伽藍でお待ちしております」と答えた。老翁は「必ず参ろう」といい、2人は親しく話をして別れた。弘仁14年(823)4月、稲を背負い、杉の葉をもった老翁が2人の女と2人の子供をつれて東寺の南門にやってきた。空海は歓待して八条二階の柴守長者の家に逗留させたのち、東山にある東寺の杣山(そまやま)を利生の地として神を鎮座させた。
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この杣山とは東寺所有の山林をいうようです。この説話では老翁が稲荷の神となっているので鎮座したのは男神です。空海の登場は唐突なように思えますが、空海の母系は物部氏の支流の阿刀氏で、鴨の神は先祖でもあり、いろんな場面でしょっちゅう関与しています。また『稲荷鎮座由来記』には「竜頭太事」として、空海と荷田氏の祖先といわれる竜頭太との関わりも伝えられています。

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竜頭太は和銅年中以来100年におよんで稲荷山麓に住み、昼は田を耕し、夜は樵(きこり)をしていた。顔が竜のようで、顔から光を発するので竜頭太と呼ばれ、姓は荷田といった。稲(田)を背負っていたからである。空海が稲荷山で修行をしているとき、竜頭太が現れて「我はこの山の山神なり」と名乗り、真言密教を授けてくれるなら仏法護持のために尽くそうと誓った。そこで空海は、竜頭太の顔を面に彫り、稲荷社の竈殿(かまどどの)に守り神として架けた。
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竜頭太の風貌は、龍神と雷神を表しているようです。荷田氏は雄略天皇の子、星川皇子の同父兄・磐城皇子(いわきのみこ)の末裔を称していました。しかし山城の秦氏とは別流の秦氏・己智(こち)氏から出た近江の磐城村主(いわきのすぐり)の流れともいわれています。荷田氏は竈家(へついけ)を名乗り、その祖霊として竜頭太を祀っていたそうです。また藤森神社の神主家である春原氏とも親交があったと伝えられています。

かつて稲荷山の御膳谷には竈殿や御饗殿(みあえどの)があり、そこでは神々の降臨を願って祭祀が行われ、御饌石(みけいし)の上に神饌が供えられました。また稲荷祭には空海が彫ったといわれる竜頭太の面も神輿と一緒に巡行したそうです。現在も毎年1月5日には、御膳谷で神酒を供えて五穀豊穣と家業繁栄を祈る大山祭が行われます。一方、5月3日の稲荷祭の還幸祭では、東寺の東門で稲荷の神輿が法要を受けるというちょっと珍しい光景が見られます。

空海が直接稲荷の神を勧請したかはともかく、平安初期に稲荷社が東寺の鎮守社となり密教と習合した背景には、東寺と関係を結んだ荷田氏系の祭祀団の影響があったとする説があります。秦氏がイナリの神を伊奈利と書くのに対し、史書では稲荷と書かれることから、上記の説話にある弘仁14年(823)のころは、伊奈利神社とは別の「稲荷神社」が荷田氏系の人々によって奉祭されていたのかもしれません。

稲荷神は、淳和天皇の天長4年(827)に従五位下の神階を賜ったのち、承和10年(843)に従五位上、翌11年(844)に従四位下、嘉祥3年(850)に従四位上の神階を賜っています。この嘉祥3年は、風土記に登場する秦中家(はたのなかつえ)が稲荷社の禰宜となった年とされているので、伊奈利の縁起が書かれた「山城国風土記」逸文は、奈良時代に編纂されたいわゆる「古風土記」ではないことが分かります。伊呂具の子孫が先の過ちを悔いて…というのは、いったん伊呂具が伊奈利の神を祀ったものの、奢り高ぶって一時没落したことを子孫は悔いた。でも、一族が霊木と崇める杉の木を植えて祀ったら秦中家の時代に復活したよ、ということかもしれません?