TENMON JITEN
水穂伝重解誌一言法則とは|原典・現代語訳|天聞解読事典
原典|言灵秘書 正典系統
水穂伝重解誌一言法則
原典抜粋
元来、吾国には書(フミ)なく、文字なく、唯言灵の外に教へなく、五列十行の形仮名は、即神代の御書(みふみ)にして、天地及万物の発り終りを知に、一として足ざる事なし。然るに、人皇十六代応神天皇八丁酉、百済より来朝して多くの漢書(カラフミ)を奉つる。それより、漢国の学ひ代々行はれて、神代の古言既に亡びんとす。故、人皇四十代天武天皇、此事を深く憂ひ給ひ、稗田の阿礼に勅有て(阿礼二十八時也)神代の古言を大御口から仰置せらるる。人皇四十三代元明天皇の御宇に至りて、和銅四年辛亥、太(フト)の朝臣安麿に勅命ありて、阿礼学ひたる御伝へを書(フミ)にしるさせ(時に稗田阿礼六十六歳)是を古事記と号(なづ)くる。皇国の道を此書に残し置玉へども、下れる御代となりて、文字に驚かされて、言灵の学ひは自からをろそかに成ぬ。寬弘長和の頃まては、世々行はるる。それより後に至りては、唯言灵の名のみ有て、其法則を知者なく、浪華津の契仲已来、国学者と称する者、打続きて五、六輩あれとも、唯俗学にいたづら流れて、広く書を見、徒(いたづら)に識を労して、尚言灵の法則を知す。現代語訳:もともと、我が国には文書や文字が存在せず、言葉の力のみによって教えられていました。五行十段の形の仮名は、神代の御書であり、天と地、そして全てのものの始まりと終わりを理解する上で、欠けるものは何もありませんでした。しかし、人の皇帝の16代目である応神天皇の時代に、百済からの来朝者が多くの漢書を持ち込みました。それ以降、中国の学問が代々受け継がれ、神代の古い言葉は忘れ去られつつありました。そのため、人の皇帝の40代目である天武天皇は、この事態を深く憂慮され、稗田の阿礼に命じて、神代の古言を口述させました。43代目の元明天皇の時代に、和銅4年に、大臣の安麿に命じて、阿礼が学んだ伝承を文書に記録させました。これが「古事記」と名付けられたものです。この書には国の道が残されていますが、時代が下るにつれて、文字の影響を受け、言葉の力の教えは次第に忘れられていきました。寛弘や長和の頃まで、それは代々伝えられていました。しかし、その後の時代になると、言葉の力の名前だけが残り、その原理を理解する者はいなくなりました。浪華津の契仲以降、国学者と称する人々が現れましたが、彼らは多くの書物に触れて知識を追求する中で、言葉の力の原理を理解しないままでいました。故に、此事を以、彼の言に見合せ、唯押計りて解事とはなりぬ。依て、万葉古今及ひ諸々の古き撰集に、猥りに註を加ふれども、依所ある事は解、拠(ヨリトコロ)なき事は說こと不能。故に、是は古言(フルコト)に無の、或は中古書写の訛りと、己か則を知す、智の及はさる所を忘れて、猥(みだり)に古人の詞(コトバ)をさつする事とはなりぬ。彼(かの)長水か言る、綱短かく及ばずして、井水涸(いのみずかれ)たりと思へるか如し。
現代語訳
一音ごとの働きを五十連の位置と水火分類から詳述する。
この現代語訳は原典の語句を置き換えるものではなく、章全体の読み筋を示す公開用の構造要約です。個々の語義は上の原典転写と各詳細項目で確認してください。
証拠・確度
- 原典層と現代語訳層を分離
- 歴史的仮名・異体字を推定で正規化しない
- 天聞式の比較解読は原典そのものとして扱わない