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「キ」の言灵とは|一言法則・意味・水火構造|天聞解読事典

言灵50音・一言法則原文と現代解説を分離

「キ」の言灵を、『言灵秘書』の一言法則と五十連上の位置から読みます。列挙語を一つの固定的意味へ縮約しません。

カ行・第2位

原文・一言法則

キ・・・影の火の靈也。氣(いき)也、正中也、限也、生也、草也、貴也、来也、香也、土。

出典:『言灵秘書』「五十行一言法則」(音別本文 P470)

水火分類

影の火の靈。これは文献内の分類名であり、現代科学の分類ではありません。

主要語

氣(いき)也、正中也、限也、生也、草也、貴也、来也、香也、土

構造的な読み方

原文に列挙された語は、この音が資料内の複数の関係で働く範囲を示します。所属行の「躰」と一音の「用」を分け、語順・前後音・呼吸を含む文脈へ戻して確認します。

証拠と確度

  • 原文引用:資料本文の文字転記
  • 水火・位置:資料本文/公開構造案内
  • 現代説明:天聞解読による解説
  • カタカムナ・古事記・密教:直接根拠未登録のため関係を生成しない

関連

言灵事典言灵秘書五十音一覧一言法則水火分類

隣接音

言霊秘書本文|キ(KA行)

五十連位置
キ(KA行)
水火分類
影の火灵
出典頁
P470
宣言法則数
9

原文

此キの一音に、九つの法則あり。始めに、

㊀氣也。則、水火也とは、水火すてに凝て、浮ひ出るのいき也。今にて云は、日輪太神宮の出玉ふ処故に、雲霞も霧も晴るるなり。雲かすみ、きりと云も、理は同くして、いき凝て雲となり、かすみとなる。是、天地のいき也。ゆゑに、カスミの反キ、キリの反キ。総て、日月もいき、又雲霧も氣。そこは同し理なれとも、日月と雲霞霧と同しやうに扱ふへからす。同し天地の氣なれとも、神灵の在と在不とあり。氣は天地の氣同しけれとも、非情有情の差別あり。神灵の有と有不とを能知り、能教るには、神道と仏道なり。儒はしからす。顕云。更に、儒道を学すして盲說を吐。実に笑ふへし。聖人の一罪人なり。兎角、其道の蘊奥を極めすして、其道を論すへからず。又或曰。今此キの音は、影の火の灵と有て、其の火に非す。夫を何そ日輪と云や。

答曰。前に数々解くか如く、真の火に形見へす。形をなす火は、火の用にして、則,影也。其形なすときは、火水二つ與み堨されは、形をなさす。今、此キの音は、火水凝て形をなす音の故に、影の火の灵にして、氣なり。ここに心得のあるは、氣に又二種あり。形なき真の水火の躰を、氣と云。又、形をなす火水の用をも、イキと云。しかれとも、火水の躰をイキと云ときは、只イと云て、キを云す。又、形をなす火水の用きを氣と云。ただキと云て、イをいはず。爰を以差別を知るへし。今は、影の火にして、火水の用きの氣の故に、只キの音に氣也とあり。イの音には命也、息也と有て、形無きのいきのイを云。万物、イキならさるはなし。人も、草木も、皆イキ也。故に、天ノ常立の反イなり。国ノ常立の反キ也。天の常立の神は、古事記に顕して、身ヲ隠シ玉へりと。是、無き水火(イキ)なり。又、国の常立の神は、日本紀の最初に挙て、形を顕す。イキの神の本となす故に、形無き天の常立は、空中の水灵のイキのイ也。形有の国の常立は、暉く火のイキのキ也。

形無きもイキ、形有も共にイキなれとも、形無きをイと云、形有をキと云。其れを合せて、又イキと云の語をなす故に、イの音に息の字を仮る。キの音に、氣の字仮り用ゆ。仮字するにも、素(もと)より其心得有りと知へし。前に云通り、万葉書の歌の仮字とは異なると知へし。

偖、今此キの音は暉く火の一行にして形無、天地のいきより形現せる氣なりと知るへし。故に、今キの音に氣也と有。又、影と云に二種あり。正火より出る影と、影より出る影有と知へし。

㊁正中也。キの音は、火水凝て偏寄さる物故に、まなかの法則あり。形を見て知るへし。

㊂限也。此キの音は、形をなすのいきにして、形をなすのいきは、火水のこり極る也。故に、限也とある。

偖、語を解は、力は搦むこと、キはイキのことにして、搦むいきと云語也。物に搦み極まれは、又離るる。故に、限り極れは、物凝のつまりを云。先きに解か如きの音は、形をなすの息にして、形なす物は必限り有と知へし。形をなさざる真のいきは、常住不変にして、限り無き故に、古事記神代卷に、天神七代は形なきいきにして、隠身とある。形なき神なれは、不去不来也。神代の神は遠きに非。必、今日に有。国常立より下もの神は、形を現すのいき故に、有去有来故に、形を現すのいき盛者必衰にして、必す限り有。形なきのいきは、不去不来にして、限り無きか故に、上のイの音のいきは、空中の水灵にして、みみを現さざる。天津神の故に、限也の法則なし。今、此のキは、形現すの地神のいきにして、来る有、去る有。故に、限也と有。実に、神仏の法りは、理一にして、形なきの本来の真如のいきは、四相のうつさざる処。形なすの凡情の波浪の息は、有為にして、四相うつされ来る有、去る有。今、此稲荷の古伝に占るに、無生より現るる生、無形より顕すの形、いきは、盛者必衰会者定離は、神仏の二道寬狭の異あれとも、其法則違さること、古伝に有て明か也。今、キの音は、形なきの火水凝て、形を現すの息のキの音の故に、限也と有。

㊃生也。ウメルとは、此キの音は、火水の形をなし初むるの音の故に、生る也と有。都て形をなす者は、天地のいきの躰より生るる氣と知るへし。

㊄草也。形をなす物は、皆天地の火水の躰より生るる氣なれとも、目前に甚しく其理を現す物は、草也。草ほと早く、天地のいきを知るはなし。或は生し、或は四時の常を能知る故に、草に木の名をおはすと知へし。

㊅貴也。先に、オの音に解くか如し。オは起てつぐことなり。此キは、暉火の灵にして、火の用をなして昇るの音故に、貴也。

㊆来也。此キの音は、形無の真の火、真の水に與みて、形をなすの氣の音故に、氣垂るの意をなして来ルとある。キ夕ルとは、キタル、キタリと用きて、父母のいき本形なし。其形無のいき舫て、いきの形をなすを、来(氣垂るる也)と云。北抔(キタなど)と云も、此心なり。夫の氣、垂るると云ことなり。今、人の来るなとと云も、遠き彼方にありて見へぬ人も、ここに近付、顕るるを来ると云。其、近付現るるものは、彼処の人の氣、ここに垂るる故なり。故に、步み近付、若し彼方の人の氣ここにたれされは、譬へあゆみ進むとも、爰に形見えす。是キ、ここにたれさる故也。有朋自遠来と云も、若其人德なけれは、近き人も近付親ます。是を、氣垂らずと云。今、形なきの真との火水、初めて形顕すのキの音の故に、氣垂る也と有。ツユと云、露の字に、月令に露は見(アラハ)るる也と有も、形無の天地の火水、今形あらはすか故に、露をなす。父母の一滴、又然り。ツユは、天地交合の一滴なり。故に、アラハスの訓あり。父母形無のいき交合して、一滴のツユをなす。是、氣垂と云。

㊇香也。コマカと云解は、上のコの条下に在。見て知るへし。

㊈土也。ツチとは、形ち現れたるいき、土に過たるはなし。天地開闢のとき、既に出来る形也。天地はいきの形の本来の始ゆへに、キの音に土也と有。既に、火のいきのキの灵起て、次にカの灵起る。此とき、初めて暉くなり。

現代日本語訳

㊀ 氣である。

すなわち「水火」とは、水と火とがすでに凝り合って浮かび出る息のことである。

現代でいえば、日輪太神宮(太陽)が昇り出る場所であり、そのために雲や霞や霧も晴れるのである。

雲・霞・霧と呼ばれるものも理は同じで、息が凝って雲となり、霞となる。これが天地の息である。

ゆえに「霞(かすみ)」の反は「キ」、「霧(きり)」の反も「キ」となる。

すべて日も月も息であり、また雲・霧も気である。理は同じであっても、日月と雲霞霧とを同じように扱うべきではない。

同じ天地の気であっても、そこには神灵の在るものと在しないものとがあるからである。

氣は天地の氣として同じであっても、有情と無情の区別がある。神灵の有無を知り、またそれを教えることができるのは神道と仏道である。儒はそうではない。

世にいうところでは──儒者は学びもせずに盲説を吐く。まことに笑うべきことである。聖人と呼ばれた者も、その一点においては罪人である。とにかく、その道の奥義を極めないで、その道を論じてはならない。

また、ある人が言う──「この“キ”の音は、火の影の灵であって、真の火ではない。それをなぜ“日輪”というのか?」と。

これに答える。──前にたびたび解いたように、真の火は形を見せない。形をなす火は火の働きであって、すなわち影である。

その形をなすときには、水と火の二つが与え合い、堰きとめられなければ形をなすことはできない。

今、この“キ”の音は、水火が凝り合って形を成す音であるから、火の影の灵であって、すなわち氣である。

ここで心得るべきは、氣にはまた二種類あるということだ。

形のない真の水火の本体を“氣”といい、また形をなす水火の働きをも“息”という。

しかし、水火の本体を“息”というときは、ただ“イ”といって“キ”を言わない。

また、形をなす水火の働きを“氣”というときは、ただ“キ”といって“イ”を言わない。

この違いを知るべきである。

すなわち、影の火であり、火水の働きとしての“氣”であるから、“キ”の音は氣を意味する。

“イ”の音には命・息の意味があり、形なき息を指す。

万物で息のないものはない。人も草木も皆“イキ”である。

ゆえに「天之常立」の反は“イ”であり、「国之常立」の反は“キ”なのである。

天之常立の神は、『古事記』に記されるとおり、その身を隠された。これは、形のない水火=“イキ”である。

また、国之常立の神は、『日本紀』の最初に挙げられ、形を顕した。これは“イキ”の神の本体をもって成るゆえである。

すなわち、形のない天之常立は空中の水灵なる“イキ”の“イ”であり、形ある国之常立は輝く火の“イキ”の“キ”である。

形がなくても“イキ”、形があっても“イキ”である。

ただ、形なきを“イ”といい、形あるものを“キ”という。

それらを合わせて“イキ”という語となすのである。

このゆえに、“イ”の音には「息」の字を仮にあて、“キ”の音には「氣」の字を仮にあてる。

この仮名の用い方にも、もとより深い心得があることを知るべきである。

先に述べたとおり、万葉集の歌に用いられる仮字遣いとは異なると知るべきである。

さて、今この“キ”の音は、輝く火の一行にして形を持たず、天地の息から形を現した“氣”であると知るべきである。

ゆえに、“キ”の音は氣である。

また「影」とは二種類ある。真の火から出る影と、影からさらに出る影とがあることを知るべきである。

「限」について、以下のように要約できます:

キの音の本質:

・形をなす息(いき)を表し、火水が凝り極まった状態を示します・力(搦むこと)とキ(息)が組み合わさり、搦む息を表現します

形ある者と形なき者の違い:

・形をなすものには必ず限りがあります・形をなさない真の息は常住不変で限りがありません・天神七代は形なき息であり、隠身とされています

神々の性質:

・国常立より下の神々は形を現す息を持ち、来ることも去ることもあります・形なき息は不去不来であり、限りがありません

キの音の意味:

・形なき火水が凝って形を現す息を表す音であるため、限りあるものを示します・これは神仏二道に共通する法則として理解されています

【㊆来也】──「キ」という音の根源的なはたらき「キ」という音には、まだ形を持たない“真の火”と“真の水”が結び合い、そこに生命の氣が垂れ注ぐことによって、初めて“形”が現れるという意味が込められています。すなわち「キ」とは、氣が垂れてくる(氣垂る)ことを表し、それが「来る」という語の本義なのです。たとえば、「キタル」あるいは「キタリ」という言葉は、父母から流れ来る“息”――すなわち生命の根源的な働きが、まだ目に見えぬ形無き状態から交わり合い、形を結ぶことを意味します。これが「来る(氣垂るる)」という言葉の本来の働きなのです。「北(キタ)」という方角名も、そこに氣が垂れ注ぐ場所という意味を持っています。また、誰かが「来る」というとき、それは単に物理的に歩いて近づいてくるというだけでなく、その人の“氣”が、目に見えぬかたちで、こちらへと垂れて来るということなのです。遠く離れてまだ姿の見えぬ相手であっても、氣がこの場に垂れ込んでくることで、姿が現れるようになります。これが「来る」の根本的な意味です。反対に、もし相手の氣がこちらに向けられていなければ、たとえ近くまで歩み寄ってきたとしても、その存在はここに“現れない”。氣が垂れていないからです。「有朋自遠方来(ともありとおくよりきたる)」という古語も、もしその“友”に徳がなければ、近くにいても人の心には近づけません。氣が垂れていないからです。すなわち、「キ」の音とは、形なき“真の火”と“真の水”が結び合い、そこに氣が垂れてはじめて形となる――その最初の瞬間を表しているのです。「露(ツユ)」という言葉もまた、これと同じです。古語では「露は現るるもの」とされますが、それは、天地の氣――まだ形のない火と水――が交わり、初めて目に見える一滴として現れるからです。これを「露をなす」といいます。すなわち、「父母の一滴」とは、天地の“氣”が交わって生じた最初の命の粒。この「ツユ」こそが、天地交合のはじまりであり、氣垂れ(キタレ)そのものなのです。このように「キ」の音は、単に動作を表す「来る」にとどまらず、宇宙の生成の最初の瞬間、氣の交わりによって“形”が現れる根本原理を示しているのです。それは、天地の氣が交わって生命が生まれる、いのちの本源ともいうべき音なのです。

「土」(つち)は、形として現れた息(いき)の最も根源的な形であり、天地開闢の時から存在しています。

天地は息の形の本来の始まりであるため、「キ」の音に土の意味があるとされています。

最初に火の息の「キ」の霊が起こり、次に「カ」の霊が起こることで、初めて輝きが生まれるとされています。

この解釈は、土を生命エネルギー(息)の最初の物理的な現れとして捉え、その後の光の誕生につながる過程を説明しています。

TENMON解釈

この節では、言灵秘書の原文と現代語訳を分けて提示します。構造上の解釈は、この音が属する五十連位置と水火分類の関係として読み、原文を越える語源的断定は行いません。

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